最近、あなたは外に出ていますか。そう問われるとあなたはどう答えるであろうか。
もちろん、「外に出ているにきまってんじゃん」と答える人がほとんどであろう。しかしながら、自分の知っている世界の外に出ていますかといえばどうだろうか。
もしかすると、ほとんどの大人が最近、外に出ていないというのではないだろうか。最近、長年の友人と遠出するきっかけがあった。彼は家族を持っており、二人目の子供が生まれたところだ。そんなタイミングに無理させたのかもしれないが、いっしょに釣りに行くことになった。
自分はわりとアクティブな性格をしていて、ことあるごとに遊び惚けている。やれキャンプだ、釣りだ、スキーだ、登山だといろんなところに行っている。また、旅行も好きで知らないところに行っている。そのことを踏まえると、知らない世界に踏み出しているのかもしれない。しかし、行動パターンで考えるとどうだろうか。もしかすると、すべてこれまでのパターンの枠内でしか知らない世界をつかみ取ろうとしていないのかもしれない。
それは、同じ店に行って買ったことのない商品を手に取ることに似ているのかもしれない。同じ店でも知らない商品を手に取ることは、知らないことを知る機会ではある。しかし、知らないことを知るためには、行ったことのない店にいく方がよいに決まっている。
新しく旅行に行こう。しかし、旅行の仕方はすでに知っている。
知らない町に行っても、散策の仕方は決まっている。知らない町での偶然もなんとなく「こういうことなら起こりうるよな」というように何が起こるのか分かってきた。すなわち、知らない場所への飛びこみかたも、偶然が呼び寄せるチャンスの出会い方もパターン化されているといってよい。もちろん、そうした経験から得てきた者が多いものの、それを何十年もすれば自分のパターンができてしまっている。
たとえるならば井の中では冒険を繰り返しているものの、井の外の世界に飛び出せていないのだ。いうなれば知らない世界への飛び込み方がパターン化されており、未知を既知に変える方法も既知の中から出ていない。
自分の行動パターンから抜け出す必要がある。
その一つの方法が自分では動かないということではないだろうか。誰かについていく。誰かに身をゆだねる。そうすることで自分が選ばなかった選択肢を他力で選ぶことになり、知らない世界を持ってきてくれるのではないだろうか。
もう一つの方法はパートナーを生活の一部とすることだろうか。少子化の日本の典型的なおひとり様のように私は仕事や自分の趣味を優先してきた。パートナーがいたときも自分の一部ではなく、外部、すなわち、最も仲のいい他者として扱ってきた。自己の一部として扱ってきたことはない。でも、自己と他者との融合はなれ合いにもなるかもしれない一方、新しい価値観を自分の中にいれこむきっかけにもなる。
冒頭に記した友人は変化を続けている。それは不本意なのかそうでないのか。そんなことを気にしているのかはわからない。ただ、数年ぶりにあって変化した部分があった。今回はそんな友人に釣り場を任せたし、おうちでもお世話になった。その経験から、彼が経験してきた「自分の知らない世界への外の出方」を垣間見た気がする。
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